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石川優実、青識亜論の討論会から考えるガラスの天井問題(広義)

 思考というのは人間が使う道具であり、道具である以上は様々な「使い方」が存在するわけですが、当然のことながら人それぞれに慣れたやりかたとか癖みたいなものがあり、青識亜論さんにおきましては思考の型が常に演繹的で、それ以外のやり方が苦手なのかなという印象が昔からあります。  Aである→だからBである→すなわちCである、という風に原点から出発してどんどんと展開していくやり方ですね。一番ベーシックな思考法であり、論理的とはつまりこれのことだ! みたいに理解しちゃっている分解能の低いかたもツイでは散見されるのですが、これは飽くまで思考の一手法であって唯一の方法ではありません。  問題を究明していく場合、なぜ→なぜ→なぜ……と、理由、原因を探っていくのではなく、まず原因を仮定し、それが作用するシステムのメカニズムをざっくりとモデル化し、もしそうならばこうなるはずである、というシミュレーションを行い、分析から得られた結果と実現象の比較をし、見かけ上それが一致していればそのモデルは正しいと推定できる。すなわち、最初に仮定した原因が真ではないかと考えられる。というやり方もあります。いわゆる逆問題の手法ですね。  もちろん、原因と結果は必ず一対一で対応しているわけではないので、ただひとつの事例だけをもって仮定した原因やモデルが正しいと確定するわけではないのですが、思考のひとつのありようとして非常に有効なので活用したほうがいいです。  さて、ところでフェミニズムてきな社会への問題提起として、しばしば「ガラスの天井」であるとか「男性優位社会で男性が生来的に履かされている下駄」などの話が取りざたされますが、これは見えにくいからこそ「ガラスの天井」などと呼ばれているわけで、観測が難しいものです。石川優実さんが軸に据えている靴の話も、この問題の一側面への取り組みと言えるでしょう。話を聞いてみるに「そういうことはまあありそうな気はするよね」とはなるものの、人間誰しも自分自身以外の人生を生きることはできませんから、ピンとこない人には徹底的にピンとこないし、ディティールにこそ真実が宿るタイプの問題なので、あまり抽象化するとぼわんとした印象になってしまってあまり意味がありません。個別具体的な事例をつぶさに観察することが必要になるでしょう。  そして、わたしからの提起なのですが「今回の石川、青識

最悪のホモソーシャルの実演

 ヴォーやらヴォーの都合でちかごろはぜんぜんツイの話題を真面目に追っていないので(とてもよいこと)風聞とTLのつまみ食いナナメ読みだけで個人的な怨念に基づいた適当なことを言うからこんな辺鄙な誰も見てないようなブログに曖昧な語を使って書くんだけど、青いのとクツーのアレが案の定まあアレなことになって風速が出て声のデカいやつと声のデカいやつがデカい声でなんだかんだ言い合っているからマイク片手に半年ちかくラップバトル待ちのわたしの声なんぞ永久に届きはしないんだろうが、届かない言葉を天に向かって呟き続けることこそが祈りだ神はお前の祈りなんぞ聞いちゃいないということで痛切な祈りをここに記しておく。  当該女性については特に優秀な人という印象は受けないが、さりとて著しくおかしかったり劣っていたりするわけでもなく、まあ良くも悪くも普通の女性だなぁというイメージで、対する当該男性にしても特に優秀なわけでもなく自己評価だけが肥大化している、まあ社会のそこかしこにいくらでもいるありきたりな男性だなぁという感じで、普通の女性と普通の男性ですね。で、客席の構成もノリもまあだいたい普通の社会を反映したような比率っぽくて現実の社会における女性の受難をそのまま映したようなものの見事な最悪のホモソーシャルの実演になっているっぽいところが批評性があまりにも高い。  なにか意見を言おうとすると「じゃあ話を聞く場を設けましょう」とか「女性ならではの感性で忌憚のない意見を申してくれたまえ」みたいな感じで「話を聞く用意はありますよ」みたいなことは言うんだけど、それでこっちがなにか言うと「それはなかなか良い指摘ですね」とか「意見は的外れだけどちゃんと物申す胆力はなかなかのものですね」とかいってワッハッハって上から目線で「評価」されちゃうんですね。なんで自分がジャッジする立場だと思っちゃってるんでしょうか、あれほんと最悪ですよね。  んで変に若かったり顔がかわいかったり身体がちっちゃかったりすると怒っても怒鳴っても「萌え」だの「かわいい」だのに回収されちゃってまたまたワッハッハってぜんぜん話聞いてもらえなくて、じゃあどうしたらいいんだよって泣くとまあ態度は一時的に軟化するんだけど「そんなに嫌ならちゃんと言ってくれたらよかったのに」とか言って、え? 言いましたけど? 怒っても怒鳴っても「かわいいね」とかい

短編小説の書きかたっていうか、なんか雑感とか

 昨日の深夜まで白目剥きながら読んで講評つけてってやっててなんとか122作品すべてに講評をつけ終えたんですけれども、あれ~モモモ大賞ってここまで大変だったっけ? って思ったら、前回の参加数が60くらいなので単純に倍くらいになってるんですよね。そりゃあ白目も剥くわけだ。初参加でいきなりこの数をやらされる羽目になったチャンラノと眼鏡先生はほんとご愁傷様ですという感じで、次からはちょっとやりかたを考えないといけないかもなぁって思ってます。最低限、参加作品は必ず誰かが読んで講評をつけるというのは維持したいので、ジャンルごとに担当の評議員を決めて一次選考をしてもらって、そこを抜けてきたやつを全員で読むとかそういう風にしないと、ちょっとこれは続けてられないなって感じです。まあなんとかやっていきましょう。  で、さすがのわたしでもこれだけの数のいろいろな短編小説をガーッ! と読んだのなんて初めての経験で、途中からほとんどただの読む機械みたいなトランス状態になっていたんですけれども、そうするとなんかこうふわっと見えてきたものがあったのでいちおう書き留めておこうかなとかそういう感じです。なおこのブログは適当に思いついたことを書き散らすぞ~というコンセプトなので記事としてしっかりまとめるつもりとかさらさらないからあまり真に受けるものでもないし、飽くまで2万字程度の短編小説に限った話で長編の場合はまた別のメソッドがあると思います。 1:主人公を行動させよう!  わりと多かったんですけれども、語り部がただ出来事を観測して叙述しているだけの存在になっていて、ぜんぜん出来事に参加していないというパターン。どんなに派手なことが起こっても、主人公がただそれを眺めているだけだと読者のほうはさらに物事を眺めているだけの主人公を眺めるだけということになって、もうフーンってなってしまいます。もちろん物語にルールはないし色々なやり方があるとは思いますが、基本的には「主人公がなんらかの問題に主体的に取り組むことで解決する」という形式になっていたほうがそれっぽくなります。 2:短編小説の主役は物語!  長編だとダラダラとした日常パートもキャラ萌えでついつい読んじゃうみたいなのはわりとあると思うんですけれども、短編の場合は一瞬で読者を引き込まないといけないので、キャラクターありきのダラダラとし

深夜のクソポエム(準備稿

 わたしたちが自由と呼んでいるものの正体がなにかというと、乱暴な言いかたをすれば失敗する自由であり、故障する自由であり、破滅する自由であり、死ぬ自由なんですよね。失敗しない道の中でだけ、どれでも自由なものを選んでいいっていう話なら、それはもう自由ではないわけで、どれだけ分の悪い選択に自分の身を任せられるか、というのが自由であるということですから。  そういう意味で、あなたは最大限に自由を擁護する立場であり、わたしのほうが抑圧的な立場である。保守的である、みたいな堅苦しい言い方をしてみてもいいけれど、実のところ、たんにお節介なんです。あなたよりもちょっと、お節介。他人に余計な口出しをしたがっている。  もういい歳の大人なんだから、大人が自分で決めたことに他人がとやかく言うものじゃないよっていうのはよく分かるし、みっともないことだとわたしも思いますよ。けれど、やっぱり親しい人が失敗したり故障したり破滅したりするの、苦しいですよね。  たぶん、あなたも経験があると思うんですけれど、わたしたちぐらいの年代になってくると、だいたい何人かは 持っていかれる じゃないですか?  わたしたちが生きているこの社会には、なんだかよく分からないぽっかりと開いた黒い洞みたいなものがあって、その穴ぼこに不意に誰かが吸い込まれてしまうんです。人格を丸ごと持っていかれてしまう。突然に、話がまったく通じなくなってしまう。わたしと話をしてくれなくなってしまう。  地味で面白味には欠けるけれども真面目で安心できる感じだった子が、久しぶりに会ってみたらなんだかとてもポジティブで元気な感じになっていて、ああそれは喜ばしいことだなと一瞬だけ思うのだけれど、カニの甲羅から抽出したという触れ込みの健康食品を売りつけようとしてきた段になって、ようやくわたしは気付くわけです。  ああ、この子も持っていかれてしまったのだと。  独立してお店を始めたという噂は聞いていて、いつか顔を出さなきゃいけないなーと思っていたら、結局お金のゴタゴタで店も潰した挙句に連絡も取れなくなってしまった子とか、話を聞く限りではもう擁護のしようもないくらいに最低なんだけれど、でも、その最低最悪のクズ人間が、どうしてもわたしがよく知る優しくてよく笑うその子と結びつかない。  カスの山師みたいなうさんくさい年上の男と不倫をしはじめ

だから好きっていうのは感情の話じゃなくて意志の問題なんだって

ほら、たとえば普段は散歩にも連れていかないし面倒もぜんぜん見ないくせにたまに気が向いた時だけ餌あげたりモフったりするだけの人を動物好きとは言わないじゃん。犬好きで犬飼ってたら、毎日お散歩に連れていって餌あげて構ってあげるわけよ。そりゃ毎日なんだからときには気が乗らなかったりめんどくさかったりもするかもしれないけれど、それでも嫌々でもなんでも餌もあげるしお散歩にも連れていくしちゃんと構ってあげるわけ。そういうのが動物好きってことじゃん? たまに気が向いたときに普段やらないようなことをやってみたら、そりゃ楽しいに決まってるんだよね、犬の散歩だってお絵描きだってスポーツだって好きな人に会うのだって、たまにやるのならなんだって楽しいに決まってるんだよ非定常作業なんだから。あ、なんかこういうのも新鮮! とかね、そりゃ楽しいに決まってるじゃん。でも好きでやるっていうのはそういうことじゃなくて嫌だなって思ってもめんどくさいなって思っても、とりあえずやるわけ。新鮮さなんかないよ毎日毎日同じようなことばっかりやってんだからさ。新鮮さを求めるってことはつまりそういうことになっちゃうじゃん。そんなことじゃなにをやっても続かないわけ。別に嫌なら嫌でもいいんだよ嫌々やれば。なにもいつも笑顔でニコニコ楽しみながらやりなさいとかそういうことじゃなくて嫌なときは嫌々やればいいの。なんかときどき仕事でもないのに楽しくないならやっても意味ない~みたいなこと言う人もいるけどさ、は? 違うでしょ。好きっていうのは別に「好きだな~」とか「楽しいな~」って感じることじゃなくて、自分で決めることなの。意志の問題なわけ。自分はこれが好きなんだって決めたら嫌でも面倒でもとりあえずやるの。決めたことは守るってことが一番大事なの。ね!

キモいポエム

 バーベキューにきている他人の子供が全然楽しくなさそうで気持ちがぞわぞわした。みんなが楽しんでいる場で、不機嫌を隠そうともしない我が子に、両親はすこしイライラしていた。  両親もおそらくは、子供が楽しんでくれることを期待してわざわざ連れてきているのだ。だというのに、あからさまに不機嫌そうにしている我が子を見れば、イライラしてしまうのも分からなくはない。でも、楽しくないのだ。普通の人が楽しいと感じることを楽しいと感じられない子も、一定の割合で存在するのだ。たぶん。  それなりに長く生きてきて、いろんな嫌なこと、苦しいこと、辛いことや怖いことや恥ずかしいことはあったけれど、総合的に評価してみると、大人になってからよりも子供の頃のほうがずっと辛かった。  小学校も中学校も嫌いだったけれど、特に、高校生時代は最悪だった。通いの懲役三年みたいなものだ。  空気を読むとか、暗黙のルールを守るみたいな、人として生きていくうえで当然身に付けているべき基本スキルがわたしには欠けていた。何気ない行動で周囲の不興を買ったり、驚かれたり呆れられたりするのは日常茶飯事だった。わたしには普通の生きかたが分からなかった。そういうタイプの子の常として、わたしもまた本の世界に逃避していた。  子供向けの本には、わたしのような外れ者が主人公のお話も多い。けれど、彼らはたいてい、冒険の末にかけがえのない友情を得たり、強大な敵に立ち向かったり、自らを犠牲にしてでも友達を守ったりして、最後には輝きを与えられていた。灰色の学園生活と言いながら、初登場時点ですでに無二の親友が存在していたりもした。心から信頼できる親友がひとりいて、なにが灰色の学園生活なのかと思った。  そういう主人公たちを見るたびに、わたしは「お前も裏切るのか」というような、ひねた感情を抱いた。  わたしが間違えているのだろうと思う。子供たちは冒険をして、困難に立ち向かい、仲間と力をあわせて、強大な敵を打ち倒し、絆を深めるべきなのだろう。けれど、そういった王道の物語にさえ、置いてけぼりにされてしまう、ごく一握りの子供というのも、きっと常に一定数存在しているのだ。  物語を書くとき、わたしはかつてのわたしを読者に想定しながら書いている。王道の物語にさえ心から共感することのできない、なにかしらの欠陥を抱えた君に、特に

四の五の言わずにせんせいのお人形を読めよって話

 たびたびタイムラインで言及しているので大澤のフォーロワーアーならタイトルを目にしたことぐらいはあるのではないかと思うのですが、comicoで連載している「 せんせいのお人形 」というのがもう本当に素晴らしいのでこんな記事を読んでいる暇があるなら今すぐ読んできなさい。  どうせ妙にひねくれているお前のことだから、そう言われてすぐに素直にリンクを開いてcomicoに飛んで「せんせいのお人形」を無料で読める範囲は全部読んで読んでしまって無料レンタルチケットみたいなしゃらくさいシステムなんかしゃらくさいと一挙に課金して最新話まで一気読みしたりはしないのでしょう。そんなことだからお前は結局のところお前ごときでしかないのだ。人が読めと言っているのだから四の五の言わずに読んでみれば良い。  どうせアレでしょ? スマッホンのアプリの漫画なんでしょ? とか、でもどうせ女性向けなんでしょ? とか、そんな百億年前の偏見に凝り固まったような理屈でアレコレ四の五の言うばかりで、人が「これは良いものだから読め」と言っているものを試しに読んでみもしない、そういう素直さに欠けた捻くれた態度をとることが「賢い」のだと勘違いしている、お前のそういうところが完全にどうしようもなく救いようがないと言っているのです。 「せんせいのお人形」に女性向けだの男性向けだのというカテゴライズは無意味です。なぜならこれはお前に向けられた物語なのだから。  お前がもしも人であるならば、今すぐ「せんせいのお人形」を読むべきです。これはすべての人に向けられた普遍的な物語なのだから。  お前がもしも人であろうと足掻いている者ならば、ただちに「せんせいのお人形」を読むべきです。これは、そういった人にこそ読まれるべき物語なのだから。  お前がもしも人であろうと足掻くことすら諦めてしまった者ならば、なにを差し置いても「せんせいのお人形」を読むべきです。これはまさしく、お前のための物語であるのだから。  お前がもしも田中非凡であるならば、とにかく読んで打ちひしがれてこい。自らの設定したテーマと真剣に向き合い格闘するとはどういうことなのか、作品の真の深みとはどういうものなのかを知ってくるといい。  まあそんなわけで、四の五の言わずに「せんせいのお人形」を読めばいいよ。で、なにがすごいってさ。やっぱじぶ